2015年12月5日土曜日

日本人のディベートに対する理解が壮絶に間違っている

私は、日本人がこれから幸せになっていくうえで、ディベートというのはとても重要だと思っています。

ところがディベートというのは、日本では一部の意識高い系の人々の「お遊び」だと思われていて、あまり浸透していません。

そもそも浸透していないのみならず、さらに気になるのは、ディベートがどういうものかという認識まで間違っていると思われる点です。

これについて真面目に考えてみました。


日本での「ディベート」の理解

いろいろなサイトをみましたが、日本人のディベートに対する理解をまとめると、大きくは
  • 賛成と反対などの複数の立場に分かれ意見を戦わせるもの
  • 自分の個人の意見とは異なる立場を理解することが大事

という理解に落ち着きます。

たとえばWikipediaをみると、定義としては

ディベート(debate)とは、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論することをいう(広義のディベート)。討論(会)とも呼ばれている。 

といったレベルのことしか書かれておらず、あとは競技や教育としてのディベートの形式の議論に終始しています。

多分感覚的にも日本ではこの程度の理解だと思います。ただ対立して自分の意見を言い合うだけのものに成り下がっていて、申し訳程度に、相手の立場を理解するというもっともらしい言い訳がつくパターン。

相手の立場を理解することが目的にしろなんにしろ、基本的に決まった意見を述べる「自分」が中心の概念なわけです。

ところが、そんなものはディベートじゃないと思うわけです。


そもそものDebateとは

ここで、同じWikipediaの英語版をみると、Debateの定義は

Debate is a method of formally presenting an argument in a disciplined manner. Through logical consistency, factual accuracy and some degree of emotional appeal to the audience are elements in debating, where one side often prevails over the other party by presenting a superior "context" and/or framework of the issue. The outcome of a debate may depend upon consensus or some formal way of reaching a resolution, rather than the objective facts.

まとめると
  • 意見をルールに基づいて述べる方法であり
  • 相手より優れた論理や事実や時には感情によるアピールで聴衆を説得し
  • ディベートの結果は、(聴衆)全体の意見によって決まる。
つまり決まった意見を言う「自分」と、意見の決まっていない「聴衆」で成立するものなのです。加えてこの「聴衆」は、意見の対立する相手でもありうるわけです。

この「聴衆」が抜け落ちてしまうのは決定的です。

ディベートに参加する聴衆というのは、述べられた内容を基に、公平に判断し、どっちの「意見」とするかを決めて結果を判定する、ということが役割として求められるわけです。つまり、純粋かつ冷静に議論の中身で自分の考えを判断するという姿勢。

そして「聴衆」に判断されるということは、意見を述べる「自分」の言った内容によって、他人の意見が変わっていくことが前提になっているわけです。

要するに、「聴衆」の概念が抜けるということはディベートをやっていても
  • 純粋に冷静に議論の中身で自分の考えを判断する
  • 人の意見が変わっていく
という大前提が身につかない可能性が高いわけです。


なんで日本では「聴衆」が抜け落ちてしまうのか

「ディベート」という言葉があることからして、英語でのDebateという概念が日本になかったから、後からそれを取り入れて新しく概念を作ったという順番だと思われます。ならば、本来どおりそのまま「自分」と「聴衆」の概念を取り入れるのが自然。なのに、そうではないということは、誰かが意図的にどこかの段階で「聴衆」を落としたと考えるのが妥当でしょう。

そしてそれは「聴衆」を外すことによって抜ける2点
  • 純粋に議論の中身で自分の考えを判断する
  • 人の意見が変わっていく
ということが認識されると不都合に感じる人々によって落とされたと推測できます。

この2点が不都合ということを逆に考えれば、
  • 議論の中身以外で考えを判断してくれて
  • 人の意見は変わらないと思わせる
ことが嬉しい人々がやったということになる。個人か集団か、はたまた全体かはわからないけど。

おそらく、それは上下関係が崩れることを恐れ、自分たちが上にいつまでもいすわりつづけることそれが全体の幸せよりも良しとする身勝手な権力者側の力が効いているのだと思われます。議論の中身はめちゃめちゃなのだけど、俺の意見を変えられると思うな黙れ、という姿勢が見て取れる。そんな人ものすごく多くないですか?あなたの周りにも

「優秀な人は環境に文句をつけない」
「まず自分が変わる」
「逃げられないのだから全力でやれ」
「長いものには巻かれろ」
「郷に入れば郷に従え」

みたいなことを最もらしく言ってくる奴ら。それを上から言ってる本人たちは、自分が変わる気なんかないし、あなたのことよりも自分の立場が崩れることによる損得をなにより優先して考えています。あなたは利用されているだけです。

本当にタチの悪いのは、下から率先してこの考えに同調し、利用されやすいように自分を変えること(しばしば成長という聞こえのいい言葉が使われる)を前面に押し出すのが格好良い、その方が幸せみたいな意識高い系ドMが多数育ってることですが。

誰なんだそいつらは!という話は置いておいて、いますでに日本ではそういう理解が定着してしまっていて、それは間違っているということを認識するのが大事です。


「ディベート」を理解すること

私がディベートは日本人が幸せになっていくために大事だと思っている理由は、最初から結論ありきでめちゃめちゃな議論を展開し、時には人格否定も織り交ぜながら、断固として立場を変えない人間が堂々と居座りつづけ、しかもそれに利用される方が優秀で幸せかもしれないという文化が、多くの不幸を生んでいることが多いと思うからです。

安保法制に関わる国会や、それを報じるマスコミの議論なんてのも最たるもので、様々な問題に対するネットの汚い罵り合いも含め、実は議論の内容なんてどうでもよく、自分はどっち派なのか白か黒かがハッキリあらかじめ決まっていて、単に異なる立場から相手を叩きのめすのみが目的になり、誰もそれによってお互いの意見つまり立場が変わるとも思っておらず、諦めをもったシラけた時間が流れる。

そもそも議論をするときに、議論の内容で冷静に判断し、議論の内容で人の意見が変わるという前提がなければ、議論などする意味がないではないですか。

議論をする場を設けたとか、経過時間がどれくらいだとか、そんなもの議論とは全く関係がない、先の2点を満たしていなければ、ほれは完全に無駄な議論です。内容以前に、その前提に怒ることができないというのは、やはりディベートに対する理解が足らないからなのではないかと思います。

なので議論の中身が関係ないまま進み、中身の良いものでなくともできあがってしまうし、一度決まったら変えることもできない。不幸なひとはもっと不幸になりやすい方式です。

ディベートを行うことで、しかもそれを正しい「自分」と「聴衆」という認識で経験することによって、冷静に中身で判断する、ひとは変えられると思う、ということの重要性に気づくきっかけになると思うのです。

だから、やっぱりみんな「ディベート」を正しく理解して、やってみて、不幸を打ち破るマインドセットを身につけるべし。という結論にしたいと思います。
 
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